東京はもはや田舎を馬鹿にできなくなった

最近東京、特に23区内の再開発が盛んだ。

確かに商業的な正解としてはタワーマンションオフィスビルを作った方が資金の回収は安定する。そういった関係で再開発で出来る建物はタワーマンションオフィスビルが多い。その後に商業施設をつくれば回収率も良い。

「サブカル聖地」アキバ再開発に噴出する反対の声

文化的な公園や美術館、博物館、歴史的建築物は回収率が悪い。土地の値段が高いところほど縦に高い高層階の建物を作りそこを利用している人間から資金を回収するのが定石ではある。

東京はコミケ等の表現活動の場が提供されているからまだ良い。ただ最近行われているような画一的な再開発により雑多なコミュニケーションの場はどんどんとなくなっていき硬直化された労働・消費・居住の場が多くなっていく。

古いものが無くなって新しいものが増えるのが恐れているのではなく、コミュニケーションの場や都市の余白がなくなることの方が怖い。不安駆動の人間たちのおかげによって「知らない人とは話すな」という教育が広まっている。それが隣の人とも交流しない隔絶されたい住空間が広大に広がる結果になってしまった。

オフィスビルはそこで仕事をする人、タワーマンションはそこに住んでいる人、という区分けをして外部の人間と隔離することによって安全性を高める。しかし不安を駆動させて防犯を進めていくほど知らない人と雑談コミュニケーションは減っていく。不安駆動の安全性が想定通りの日常を醸成するのであってそこに意外性は出てこない。繰り返しの日々が永遠と続く。そして、そこから自由な発想や創作や発明は出てこない。だから、自分の周りや自分と同じ生活をしている人間以外の想像ができない。そこでのみ常識が決まってしまう。

何をするのかよく分からない場所=消費できない場所は淘汰されるのだ。そういった場所をうまく利用するのが人間の想像力であるのに。

東京はもはや田舎を馬鹿にできなくなったのだ。ただの消費活動をする街になったしまったから。

今、新しい宗教が必要な理由

創価学会統一教会などの政治的なバッシングが多い今日この頃にこういったことを言うのは少しばかり憚られる。しかし、資本主義や情報化社会などによって個人の趣味嗜好がばらけた結果、世代が同じでも話が合わなくなってしまったりして日本の共同体が解体されているのは明らかである。共同体が解体されると無力な個人が残る。無力な個人は会社や社会におんぶに抱っこで生きているのですぐに国や自治体に助けを求める。それの対応に対して国や自治体は税金や人間を投入する羽目になる。個人の弱者性や個別の事象に対して団体が対応するのはそ限界がある。ではどうするか。

日本には貨幣の面と思想の面からのベーシックインカムが必要である、と提案する。貨幣の面からのベーシックインカムというのはその名の通り0歳から死ぬまで一人の人間が生きていく上でのお金を確保することだ。これを絶対的恒久な制度にする。そのことによって仕事や人間関係がうまくいかなくなって精神的・身体的にきつい状況になっても個別的な事象・弱者性に関わらず生活は最低限保つことが出来る。

また国や社会はこれを絶対やらないといけないわけではないがこういった社会保障をやらない国はもはや存在する意味が無い。個別の弱者性の競争に対して事務処理や理解をするだけでは時代が進めば進むほど費用がかさんでしまい破綻する。なので雑に貨幣を配り弱者性の議論は終わらせるのだ。またこれは個人が本当に生産したい物を生産する意味でも有用である。

次は思想のベーシックインカムがある。実はこれが今回メインで話したいことである。思想のベーシックインカムというのは失敗しても戻ってこれる原点的な思想・考えという意味で提案している。それは老若男女・社会的立場関わらず信じられるものが大切である。それは全員が信じられるものが良く、それは努力しなくても信じられるものが望ましい。最近は政治的なイデオロギーでそれを解決しようとする政治団体もあるのだがそれは左翼的なものでも右翼的なものでもいずれ破綻するような気がしている。

思想のベーシックインカムというのは日本人全員が信じられる新しい宗教の開発である。例えば日本では昔から家族を人生の優先順位第一位として考えることをしていた。つまり宗教として家族を大事にする家族教みたいものである。これについては半分以上は賛成ではあるし、昔の人はそれで生きていけた。そして他の国も家族教を生きる意味として考えている国は多くある。しかし、残念ながら家族は不老不死でもないので神なりえない。

悲しいことを言うと家族は死んでしまうのである。少子化や老人の孤独死があるような世の中で永続的な家族教というのは現代が要請する新しい宗教にそぐわない。そういう意味で家族教に近い新しい宗教・新しい神が要請されているのである。それが地域によってイスラム教だったり仏教だったりキリスト教だったりするのかもしれないが、日本の人間全員が薄く広くなんとなく信じておりこのために生きていると言い切れる宗教が現在無い。これが現在日本の中で多くの人間が不安でたまらない原因の一つである。

以上をもってして時代や家族形態に関わらず新しい腑に落ちる宗教の登場が待たれるのである。それは地域の祭り的なものでもよいし、イベント的なものでもよいのだ。半永続的に自分の心の中に残り続けるものでどの世代にも価値として認められる何かが必要なのだ。もし、そのようなものが再興できれば再度多くの人間同士で話が噛み合う。そして知らない人同士でも協力できるような関係性が強固に築くことが出来て今までの地域共同体とは違う、別の共同体の復活になるのではないか。

田舎や発展途上国は既になめらかな社会に到達していたのかもしれない

田舎に住んでいると時々、物々交換のイベントが発生することがある。物々交換のイベントとは農家の人間が米をくれたり野菜をくれたりすることだ。もらった側はそれを覚えていて自分の畑などでとれたものをもらった人間に後々お返しをする。

僕が幼少期住んでいた地域は比較的新しく作られた町なので農家は少なかったが、近所の人が旅行のお土産や買いすぎた食べ物を分けてくれたりすることは多くあった。そうやって田舎では物々交換のイベントが残っている地域も多い。

貸し借りで発生するセーフティネット

昔はこの行為が「貸し借りの強制」に見えて田舎っぽくて嫌いだった。しかし、今思うとそれはなめらかな社会を作るセーフティネットみたいなものだったのではないかと思える。それはどういうことか。

まず、こうした日々の貸し借りが発生することによって会話や他人を考えるきっかけになる。自分がどういう人間で相手がどういう人間なのかを確認する機会である。少なくとも相手や自分ができることを意識して生きることになる。

そういったことを考えていると昔読んだことのある本が思い出された。「その日暮らしの人類学」だ。著者はタンザニアのフィールドワークなどをしてこの本にまとめている。著者曰くタンザニアでは友人に誘われて軽く仕事をしたりお金を借りたり物を貸したりする。そうやってタンザニアをはじめとした発展途上国では、その場暮らしの経済が回り、お金だけではない人間中心の経済の日々を暮らしている。

そこには確実性や長期的目線は存在しないのかもしれない。しかし、その場暮らしの友人に誘われたビジネスや貸し借りという行為は、相手が困っていたら助ける、自分が困っていても助けてくれる人間がいる、という確認になるのだ。そしてそれは時としてチャレンジ精神や前向きな精神を生み出す。

物の送り合いも一緒に何かをするという行為もモノの貸し借りも変わらず、その場におけるコミュニケーションを引き起こす。短期的で意味が無いように思える習慣も長期的に見たらコミュニケーションの充実やその地域の安定につながっている。

貸し借りはモノでなくて良い

田舎や発展途上国ではなぜモノを送りあう習慣があるのか。多分それはモノを送りあうのが一番わかりやすい「味方アピール」だからだと推測する。相手がどんな人なのか分からないがとりあえず自分の余ったものを贈る。そうするとどんな人間か知ることが出来て「正体不明の敵」ではなくなる。

またそのコミュニケーションはお互い「味方アピール」が出来ればいいのであるからそれはモノの貸し借り、送り合いでなくても良い。例えばあの人はいつも食べ物をくれるから今度は自分が困ってることや相談に乗ってあげよう、とかそういうもので良い。

田舎や先進国ではモノが分かりやすい価値になっているだけであって「貸し借り」「コミュニケーション」の道具でしかない。「貸し借り」「コミュニケーション」をすることによって「味方アピール」や「親睦」を深めることが出来る。モノをはその目的の「道具」である。

分かりやすい価値しか評価できなくなった社会

人間を人件費や単価として計算しようとする資本主義や自分が大勢の人間と比較可能になる情報社会は分かりにくい価値を見えにくくする。現代社会では分かりやすい価値に対して金銭が支払われる社会だ。反面、分かりにくい価値や経験の評価ができなくなり「貸し借り」や「コミュニケーション」が途絶えがちになる。

対して田舎や発展途上国がしている貸し借りや物々交換は時として自分が生きる糧になりうる。資本主義や情報化社会が分かりにくい価値を計算できないのであれば、今こそ、それを補完する手段として「貸し借り」を一考しても面白いのではないか。

トー横界隈とか闇バイトについて思うこと

最近ニュースやSNSでトー横界隈や闇バイトなどについて報じられることが多くなった。当初は若い人も大変なんだなぁと呑気に感じていたものだが、よくよく考えるとその根本原因は自分が若いときに感じていたとことと少なからず共通する部分があるのではないかと思うようになった。そう思うと段々とトー横にしろ闇バイトにしろ、そういった現象の真っただ中にいる少年少女が他人事には思えなくなっていたのだ。

親と子供の価値観が合わない

まずは僕はトー横界隈・闇バイトをやっている年代がかなり低いことに関心があった。このような現象の主役は少年少女が主体であり、親も原因の一つなのではないか、そう感じるに至った。

家庭の事情にもよるかもしれないが、平均的な親と子供というのは20歳以上の歳の差があると思われる。20年という年月は短いようで長い。例えば、この記事を執筆している2023年から20年以上前というのは2003年頃であり、その頃は地上デジタル放送が始まったりipodが流行ったりした年である。

そう考えると15~20である少年少女とその親の年齢が35~40だとすると価値観が合うはずがないと考えるのが当然ではないだろうか。価値観が合わない親と子供がどうやってお金を稼ぎ、どうやって使うかなど意見が合う訳もない。ひいては人生の生き方など全くもって違うのだ。

大人になった僕はそういった感情を言語化できるが、その年頃の少年少女はよほどの言語化能力が無い限り無理だ。十中八九、うまく助けてもらうことが出来ずモヤモヤを抱えながら生きていく。やがて一番近くの大人である親や先生に相談しても無駄だと感じるのだ。

やがては自分を非難するしょうもない大人たちから離れるべく自立を試みる。そうして自立をしようとばかり気持ちがはやり闇バイトなどに手を染めるのかもしれないと仮説を立てた。

弱い立場の人間が助けてくれと言えない社会

親や先生などの大人たちから時代遅れの普通や常識を押し付けられた弱い若年層は誰に助けを求めればいいのだろうか。確かに運がいい人間やスキルを所有して自分で立ち上がれる人間は勝手に親離れをできるのかもしれない。しかし、そういったスキルが無い人間はどう生きていけばいいのか。

そういうことを考えていると最近の映画の「そばかすの姫」を思い出した。主人公の女の子は勇気を出して仮想世界において歌で夢を叶えた。しかし、その一方で親に虐待され生きてきた少年はどうだろう?

そういった人間たちにとって仮想世界(ネット)は現実世界の鬱憤や不満の吐け口にしかならない。うまく仮想世界で自分を表現できたポジティブな主人公とネガティブで親に虐待されている少年のストーリーは対比的だが現代でもあり得る。少年は作中でこう言い放つ。

「助ける助ける助ける、ってもううんざりなんだよ」

スキルがあったり一芸があると有名になって居場所ができる。しかし逆にそれらを持たざる者は生きていけないのだろうか。親がそういったスキルや教育が出来ず、そのもとで育てられた子供はどう生きていくべきだというのか。持たざる者が苦しむのは自業自得・自己責任の世界なのだろうか。

トー横や闇バイトを一時的な若気の至りと一笑に付す前に、僕はそろそろこの問題について真剣に考えるべきだと世の中の大人たちに提案する。

あなたの「正しさ」は社会を崩壊させる

この前「ただしさに殺されないために 声なき者への社会論」を読んだ。自分が常日頃違和感を感じる事象と近いことが書いてあったり、著者の視点・考えを学べてよかったと思う。

僕自身の最近の思考を説明しておくと最近の人間は「正しさ」を間違って扱っているのではないかと感じる。ここでいう「正しさ」は「普通、常識」と言い換えても良い。そのあなたの「正しさ」は「手っ取り早く自分を納得させるために、外部から安易に答えを求めている」だけかもしれない。そういった考えを頭の片隅に入れて以下の文章を読んでくれると理解が早まるはずだ。

正しさに対する疑問

この本で行われている事は一般的に「正しい」と言われていることへの疑問の列挙になっている。自分は興味が薄い分野だが、いわゆるポリティカルコレクトネスやフェミニスト、社会的弱者に対しての言及が多い。

僕としては最近の「正しさ」をかざす行為が「昔からの常識、普通」「大多数の意見」「海外の思想」等で語られがちだと感じている。そしてその動き自体があまりにも自分で考えられない人たちの鈍い思考なのではないかと違和感を感じるので大変興味深い内容だった。

冒頭の繰り返しにはなるが、最近の様々な動きが個々の頭で考えることが出来ない人間たちが手っ取り早くテレビやネットの意見、海外の政治的思想に染まり自分に都合の良い思想を取り入れているだけに見える。そういう意味で考えとしては納得できるものも多かった。

正しさがあなたを殺すとき

こういった「正しさ」を固定化した先に何があるのか。答えは地方の現状や日本全体の数字に既に表れている。もう知っているかと思うが日本は幸福度も生産性も出生率も若者の比率も高くはない、高いのは平均年齢と自殺者数ぐらいだ。その現状でそのままで良いと考える人間が大勢いてなおかつ、その状態が「正しさ」だと思っている。そういった社会では例外的な人間や事象に柔軟な対応をできず、例えば社会から隠された弱者が「普通、常識」から外れてしまい生存が難しくなる。

他人を否定するために、自分を手っ取り早く納得するために吐いた「正しさ」が自分を殺す日は絶対にやってくる。それは自分が老化した時かもしれないし、身体障碍者が身内に現れた時かもしれない。自分の生まれた、育った町がシャッター街になり消滅した時かもしれない。

もしあなたが「正しさ」を変えずにずっと勘違いしたまま死ねたら幸運だ。しかし、その場合あなたの「正しさ」が間違っていると他人が教えてくれなかっただけか、自分が違う価値観を理解できなかっただけだ。それを純粋に喜べるだろうか。

田舎も東京も正しくはない

実体験を述べると、田舎の人間ほど「正しさ」にうるさい。しかし、もはや田舎は「正しくない」。なぜなら東京をはじめとした都市部で働いたほうが収入は大きくなるからであり、人口も都市部に勝てるわけがないからである。資本主義において仕事やお金、人口が多い場所は正義であり正しい。この考えで行くと田舎に住むのは正しくはない。それ以外の「正しさ」をかざしても若者は田舎に残らない。

この問題を「東京に住めばいい」で解決とみなす人もいるだろう。しかし、今の地方の現状は未来の東京の姿である。これまで散々地方の人口を吸い取ってきた東京の人口は、2030年までに減少に転じる。残念ながら東京は出生率も47都道府県で最低レベルである。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20230216-OYT1T50080/

東京都は、都内の人口が2030年の1424万人をピークに減少に転じるとする推計を公表した。21年の前回推計時と比べ、人口減が始まる時期が5年延びたものの、都は「首都東京でも人口が減少していく事態は避けられない。持続可能な都市を目指す必要がある」としている。

読売新聞オンライン

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC048880U1A600C2000000/

厚生労働省が4日発表した2020年の人口動態統計によると、東京都の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産むとされる子供の数)は1.13と、19年(1.15)と比べて低下した。東京の合計特殊出生率は全国で最も低く、子育て支援の充実などが求められている。首都圏1都3県でみると神奈川は1.25で0.03ポイント低下。埼玉は1.26で0.01ポイント下がった。千葉は横ばいの1.28だった。全国平均は1.34で、1都3県はいずれも下回っている。

日本経済新聞

いずれ東京でも人口は減少し始め、世界トップの平均年齢を誇る日本の首都らしく、中年だらけの都市になる。ちなみに日本の平均年齢は48歳で東京の平均年齢は44歳である。東京に来たら確かに自分は生きていけるが、だからといって社会がいい方向に向かうわけではない。

「100年後や50年後のことなんてどうでもよい、自分さえ幸せであれば良い」という人がいるがそれこそ田舎の人間が昔考えたことだ。その結果、田舎の人口は減少し少子化に歯止めがかからなくなった。そして、その思想のおかげで田舎には廃墟やシャッター街という観光資源が豊富に存在するようになったのだ。このように「自分さえ暮らせれば良い」が何も社会に貢献しないのは上記の例で自明である。

「お金のために働いて家や家族を養う。それが当然だ」は今までの「正解、正しい」だったがその人間たちはこれからの時代では「不正解、正しくない」である。なぜなら自分がいくらお金を持とうが土地を持とうが投票権を持とうが家族を持とうが住んでる町、社会、国が崩壊したら元も子もない。実際に僕の身内はそういったシャッター街になってしまった町に住んでいる。僕はそのことについてどうすることもできない。

効率よく社会を崩壊させる方法と1億2000万人の加害者

効率よく社会を崩壊させる方法がある。それは頭が悪くて価値観が古い人間に「金、土地、投票権」等を集中させることである。そんなことをする地域や社会がこの進んだ現代であるとは思えないが、もしそのような状態に陥っている場所があるとしたらそれはいずれ消滅するであろう。そういった場所から価値観が新しい人間や賢い人間、若い人間はすでに離れているからである。

実はこの国では政治家や金持ちが悪いのではなく1億2000万人の国民全員が「正しさ」の固定化をし、それを他人に強制することによってゆっくりと国を崩壊に向かわせているのだ。これらの人間は犯罪における加害者側である。その自覚を持つことは天と地の差があるのではないだろうか。

提供>経験>知識

最近、人間は何かを提供できることが価値なのであろうと考えるようになった。

一番初めに僕は知識を手に入れることが一番の価値だと思っていた。なのだが結局それは情報をたくさん持っていてもすなわち賢い人間にはならないことに気づいた。それで賢い人間になるなら一日中ネットやテレビ見ている人間が賢くなるはずだ。たくさんの情報や知識を持っているということだけでは賢い人間にはならない。

僕は次に経験を積むことが価値だと思った。サッカーの知識を持っていてもサッカーをやったことがない人間があーだこーだ言っていたとしてもそれは部外者が受け売りの知識で文句を言っているに過ぎない。ピアノの知識を持っていてもピアノは弾けないし教えることは出来ない。つまり知識より経験こそが価値だと思った。

しかし、経験よりも価値のあることがあるように思える。それは提供である。生産と言い換えても良い。知識・経験があってもそれで他人に提供できるものが無かったら意味がいないのではないか。例えばサッカーの知識・経験があって自慢していたとしても聞き手側にメリットや影響力が無かったら意味がない。知識と経験に基づいて解説の仕事や指導者になって視聴者や生徒に価値を提供できて初めて意味を成すのではないか。

そう考えるようになった。

新解釈「ボトルネック/米澤穂信」

良い小説というのは時間が経って読むと違う解釈ができたり、違う角度から見ると結末が違うように見える。今回取り上げる「ボトルネック/米澤穂信」も例に漏れず良い小説だと思う。基本的な感想や考察は大体がネガティブなイメージで語られることが多い。しかし、走り書きにはなるが今思っている「ボトルネック」の解釈は全く持って違った。以下現時点での自分なりの解釈である。

僕が恋したのは僕の鏡像だ 僕の思いはそもそも恋ですらなかった それはねじくれてゆがんだ自己愛だった

主人公はノゾミを好きなったはずなのだがそれは自分を真似したノゾミだった。パラレルワールドの先ではノゾミがサキの性格を真似しているように鏡像だったのだ。そのことに失望し自分自身を愛していたのではないかと思うシーンである。しかし、一つ疑問が生じる。なぜ元の世界のノゾミはそこに気づかせるために主人公をパラレルワールドに送ったのか。以下解釈である。

まず僕は主人公が東尋坊に投げ入れた白い花はスイセンかもしれないと思った。そしてそのスイセン花言葉は「自己愛、うぬぼれ」だ。神話のナルキッソスは池の水に映る自分の容姿に恋して水に抱きつき池に落ちて死んだ。この語源は「ナルシスト」の語源になっている。この時点で東尋坊に主人公が落ちて死んでしまうのではないかという予想ができる。

ここまでの推理が出来たのであれば最後の「イチョウを思い出して」という言葉にもヒントが隠されているのではないか。ナルキッソス花言葉は「自己愛、うぬぼれ」だったがイチョウ花言葉は「荘厳、長寿、鎮魂」。古くからイチョウを切らずに思い出に浸っていたおばあちゃんは何かを鎮魂していたのではないか。小説の中で「死んだ爺さんの思い出がどうと聞いてたけど」とあるので筋は通る。

最後に大前提をひっくり返すようで悪いが2度目に戻ってきた東尋坊パラレルワールドの可能性がある。なぜなら死んでいるはずのツユが電話をかけてくるのはサキが生きている世界でも元の世界でもありえない。そうすると最後のメッセージだって特に気にする必要はない。違う世界で母親から小言を言われてもそれはパラレルワールドなのでどうでもいいはず。どちらかというとこっちの世界でも干渉してくるのか、という笑いになる。

そして以下のセリフは実は主人公に対するセリフではなく読者自身へのセリフではないのか。

聞いて。思考に限界はない。キミにだって。-想像して!あの娘が本当に望んでいるのは何?

自己愛で嵐が過ぎ去るのをただ待つ人生も良いが亡くなった人に向き合って鎮魂したほうが良い。死者をうらやむな。2年も経って弔いに来る主人公へのメッセージが聞こえる。だからパラレルワールドのサキは東尋坊に来た回数が2回目だと聞いて驚くのだ。

僕は真のボトルネックは"主人公の存在"ではなく"読者の想像力"だと思っている。